言うは易し行なうは難し

なんて言葉が浮かんだ[TRPGのスキル]PLとしての火塚たつや[mixi.jp/tatuya氏日記]の感想。
ところで↑の記事、タグと内容がかみ合ってない気がするのはあれかね。考えすぎ?

前半丸々使って氏のやっている「所謂FEARゲー」の勘所であるスリーアクトストラクチャーの部分についてはまぁFEARが映画手法を取り入れた構造をやっていることの説明なんでまぁ別に何も言うことがないなぁ。
あえて言うなら、所謂FEARゲーについてと前置きしたんなら、いっそのこと説明にPC番号を使ってもいいと思うんだよなぁとか思ったりしたところかな?個人的にはそういうの嫌いなんでいいんだけど。
 
導入ではPC1に(ハンドアウトであらかじめ提示してある)問題が提示される。PC1はその問題に立ち向かうことが要求され、その行動が展開として描かれる。そして、その展開に対して直接・間接さまざまな形で絡むことを明示・暗示してあるハンドアウトを持つほかのPCとの関係により、ロールプレイが行われ、物語が構成される。
 
…あんま変わらないか。
 
 後半部分については、いくつか懸念があったりする。
具体的にはすり合わせについての言及がなされていないこと、レベル…というとあれなんだけど、端的に言えば「氏が意識しているような考え方でTRPGをやっていない/やってるが意識していない」RL/GMやPLに対しては、PCをたきつける行為が過干渉で不快に思ってしまったり、あるいは思惑がすれ違ったまま進んでしまって(致命的にならないまでも)問題が発生したりしないのかとか。
 たとえば伏線のバラ撒きはRL/GMの対処/放置の選択氏を無為に広げてしまう可能性をはらむだろうし、大体伏線なんてたくさん撒けば撒くほどそれぞれの印象が薄くなったり、忘れ去られやすくなったりうする気が個人的にはするわけですよ。
井上先生曰く「語られない設定は無いと同じ」という金言はありますが、だからって使わない(忘れ去られ、無視される)可能性を前提に伏線を撒くのは個人的にどうかと。
 
 あとは個人的に面白いと思ったのは、なんていうのかな、「ポストポストアクトのためにアクトをやっている」ようなことを意識している点。「リプレイにして面白い」とか、「観客が見て面白い」っていうのは、終わったあとの歓談で楽しむとか、ぜんぜん別の機会で参加者が「こういうアクトがあって云々」とか話すときのことを考えてて、セッション内にとどまらないところまで考えが及んでいるんだなぁと。
ところで文章全体を見ると「自分はサポートに徹している」という主張が見え隠れしているんだけど、寡聞にして「tatuyaさんがサポートが巧い」という話は聞きませんね。なぜなんでしょう。